磯津環境学校2年目に思うこと

                         
磯津環境学校というのは四日市公害の一番激しかった地域「漁村・磯津」(今はもう漁村の風景をそう多くは残していません)で、青年や子ども・若いお母さんお父さんと地域の自然・環境・歴史・文化・産業・生活・人・今を学ぶ月一回の学校として立ち上げたものです。

今は20~30人ほどの人が参加してくれます。

 ほぼ2年で何ができたか

 この2年で何ができたかの自問に応えるのはそう簡単ではありません。折れそうになったり、なんでこんなこと格好つけて始めたんだろうと後悔じみたことを思ったり…。でも、前向きに振り返ると

  磯津でたったひとりしかいなかった知り合いが50人ぐらいになりました。

  そのひとつひとつの出会いが発見であり、学びになり、次の勇気になってきました。

  磯津に要るのは資料館というよりはむしろ町おこしだと言うことが見えてきました。

  大変な時間を要する通信発送作業を支えてくれる青年たち(教え子たち)がいます。

  通信を財政的に応援して下さる方々もたくさんのカンパを振り込んで下さいます。

  HP・ブログも開設し、少しはそちらでも発信できる体制が整ってきました。

の辺りですかね。

ブレずに、初心にかえって

 四日市市が公害資料館を建てる(既存施設改良で)と言い出しました。それは、ひとまず歓迎すべきことです。(一月現在どこにするか場所で紛糾しています。それに開館は2014年春の予定ですから、まだ、もの申していかねばなりません。)しかし、その資料館の場所が市内のどこになろうと、私は、この磯津の意味は変わることはないと思っています。

 磯津という公害で苦しめられ、町中をとりわけ補償金などで分断され、コンビナートと関わって仕事や意識でも分けられ、漁業という生業を奪われ、「鯨船」というすばらしい伝統行事なども消えざるを得なかった集落。ここに、若者と子どもの声を取り戻すための作業を何かしらお手伝いしたい。私のある意味、後半人生を賭けると決めたこの町、磯津。

 私は鈴鹿市民です。四日市で長く教師をしたとはいえ、磯津では全くの「よそ者」です。

 しかし、この町をフィールドにさせて頂く誇りと嬉しさ。この町で声をかけ物心両面で励まして下さる方々と、もう一歩、もう一歩と進んでいきたいと思います。

 

2012,1,31                                共同代表 萩森繁樹





 磯津環境学校 規約

第一 目的
 この組織は、三重県四日市市の磯津・楠周辺を拠点にThink Globally Act Locallyの精神で活動することを目的とする。

第二 名称 
 この会の名称は、「磯津環境学校」(略称「いそかん」)と称する。

第三 所在地
 この会の所在地は、〒510-0863四日市市磯津南町2839 野田之一さん気付とする。

第四 会員
 この会の会員は、会の趣旨に賛同し、会の活動に自由に参加できるものとする。
 また、周辺でサポートしたり、自由に参加したりすることも妨げない。

第五 役員
 この会には、共同代表数名と事務局長、事務局次長、会計を置く。

第六 運営
 1 会議
   月に1回会議を開催し、会の運営について協議し、実務作業をする。
 2 行事
   月に1回「磯津環境学校」を開催する。
 3 通信
   月に1回「磯津通信」を編集発行する。
 4 その他
   随時、会の目的に沿った活動・学習会を持続し、展開する。

第七 会費
 会員または支援者で、一定の額を目安に、自由意思で、郵送・編集・運営費等を拠出する。

第八 会計監査
 支出・収入の記載された帳簿と領収書の照合できる資料を常備させ、確認する。
 会計監査を置く。

第九 設立
 この会は、2010年4月1日の設立とする。




    磯津でしていること学んでいること    

はじめに

  本報告は、2011,3,12午後の「いそかん(磯津環境学校)1周年シンポジウム」の素材として提起し、議論を深めていただこうとするためのたたき台として書いたものである。

その時のシンポのねらいは

    磯津環境学校の1年の取り組みを振り返り、次のステップを未来志向で考えること。

    皆さんの意見を聞き、次年度の「いそかん」の課題を明確化し、具体化を計ること。

    環境問題(ESDを含む)、地域づくり(町おこし)のきっかけと法則性を探ること。

に置いていた。

 

1、       「磯津」における「環境学校」づくり

[磯津環境学校]

 磯津と言う地域を選んで「環境学校」を立ち上げたのは他でもない。磯津が四日市公害の最大の被害地であり、公害裁判の原告9人が暮らした町だからである。 当初の願いは、駐車スペースもバス20台分はあり、地域の皆さんの利用も遠のいている「磯津公会所」を環境・福祉の複合施設として想定しながら、その拠点で、若者や子どもたち、若いお母さんお父さんたちが集まる元気な「環境学校」をと考えたからである。今も、たとえ公害資料館が市内のどこに造られようとも、磯津というところで、環境と地域を考える「学びの場」を続けようという思いは変わらない。公害資料館が単なる資料収蔵庫で、語り部さんがいる館では十分とは考えていない。そこが、日常的に、環境と地域の課題と楽しさと、敢えて付け加えるなら「若さ」を発信していなくては本当の資料館足りえないと思っている。

 この1年間でしてきたことを振り返ってみる。

     /1 野鳥観察…56名、第1回で盛況。子ども38人大人18人で絶妙のバランス。

     /6 海辺の植物観察…51名、子ども33人大人18人。五感を使って海辺の自然体感。

     /10  河口で貝とり…48名、子ども28人大人20人。初参加、鈴鹿亀山からも参加有。

     /  オリエンテーリング…11名、子ども6人大人5人。真夏にするものではない。

     /11  流木アート…52名、子ども25人大人27人。盛況これは夏休みの作品にすべき。

     10/9 原色押し花…26名、子ども13人大人13人。2回シリーズ。塩浜の子ら参加。

     11/3 買い物ゲームと料理…44名、子ども23人大人21人。フードマイレージ学習。

     12/4 冬鳥の観察…16名、子ども7人、大人9人。風強く、寒い日。参加者少なし。

     /10 連凧上げ…30人、子ども19人大人11人 冬の青空に見事に連なり凧あがる。

     /12 クロッキーと漁の話…15名、子ども3人大人12人。最低。絵は苦手なのかな。

     /5 春を探して食べよう…23名、子ども13人大人10人。中嶋先生には世話になる。

〈 以下略 〉

 

 最近、少し参加者に陰りがあるようで心配しているが、その要因は何か、地元の磯津の子どもたちを誘い出す手立て、近辺地域や市内全域への宣伝、新内容の開拓等考えなければ、いつまでも柳の下にドジョウはいないし、この間支えてくれている楠の子どもたちも中学生や高学年になってさらに忙しくなっていくのである。

 内容面でも、今回のいそかんで(なぎ)()と母のトモヤンが言ってくれたが「春探し、外かと思った」はとても示唆的で、つい部屋の中での調理になったり、「お膳立て」しただけだったりの環境学校では本来の意味が薄れる。今までの成果と教訓には学びつつも、もっと野性的で「自然の中へ!」の当初の思いへの回帰が求められている。

  

[磯津通信]

 位置付けは、磯津・楠の地域の掘り起こしと記録、広報である。

 2月現在で月750部印刷して、クロネコで557部(44,560円)手配りで144部、後は宣伝紙扱いであるが、1年にして相当膨れ上がっている。

 内容的にねらってきたことは、①地域の掘り起こし聞き取りと再記録化。「人」と「希望」を登場させたいと思っている。 ②楠・塩浜地域の「地域の現実の課題」を考えたいと意識している。 ③環境学校「いそかん」の報告と予告。 ④全国情勢も知りうる限り取り上げようとしている。 ⑤「アジアから世界から」の欄はThink Globally Act Locallyの理念の具体化、就中(なかんずく)アジアの知られない現状を伝えたいとは思っている。 ⑥英文のページはかっこをつけて無理をしているが、ここには本音を書いている。やがてはHPで世界発信をするねらいもある。

 幸いたくさんの反響と支援をいただき、カンパを訴えさせていただいたら、30万円を越えて浄財を寄せていただいた。こうなるとそう簡単に放り出すわけにはいかない。実のところ、聞き取り対象は今のところ次から次へと浮かんでくるが、1620ページの編集はなかなか神経となけなしの頭を使う。しかし、印刷した後、拾って重ねて、折り、封筒詰めし、セロテープで封をして、クロネコシールを貼って送り出す一連の作業を共にしてくれる若者たちがいてくれることは大変大きな励みと支えになっている。

 所期の目的はまあ何とか達成してきた面もあるが、課題は多い。共同執筆者や寄稿してくださる方を増やすこと。肝心の磯津で読んでくださっているのは50人ほど、これをどう広げさせていただくか。また、外に内に反芻機能をどう作るかもささやかなメディアながらも心がけたい。

尚、今までの1年は恥ずかしながら私自身の生き方の宣伝のような時期であった。これからは、周りの人たちの心の中に「想像力」を耕す段階にシフトしていかねばならない。今問われているのは、磯津への知を拡大し「当事者性」をどう醸成し、共同者をいかに増やすかである。こうしたことを考えるなら、ひとまず発送部数も精査して減らし、極力浄財を有効に使わせていただくようにする責任をしっかりと負っている。

 2、       「当事者」性

 ところで「当事者」とはなんだろう?

 そこに直接関係している人、対義語が「第三者」であろう。

 それでは「当事者性」とは?「その地域で生き、住み、学び、闘っている人に共感し、寄り添える心」と位置付けたら、私は磯津に「当事者性」を持ち得てきただろうか。

 現在の磯津は、漁業も獲れるものは少なく生業(なりわい)にならない。少子高齢化はこの町でも進んでいて、保育園児も磯津の子は現在12人(1~5歳)。戦後23年間途絶えていたのを再興した四日市指定無形民俗文化財「鯨船行事」も十数年続いたが今は休止して9年の歳月が流れる。盆踊りも復活の若い模索はあるがまだ再開できていない。

公害認定患者はこの町だけで70人近くみえ、四日市の他地区と比べると断トツに多い。それと同じくらい問題なのは1988年の公健法改悪以来、未認定の患者が多数放置されて20数年が経過していることだ。行政や企業は「公害は克服した」と言うが、この四日市公害の原点では今も公害の被害は歴然と残っている。そして、この町の人々の心の中に「公害」を通してできた亀裂が尾を引いているのも残念ながら認めざるを得ない。

時折、アイアンクレー、フェロシルトで物議を醸しだす企業があるが、その時も人々は四日市公害の成果である「米本判決」でそれを見、弾劾しようとしないで、別問題として扱い、結果的に免罪し、市民の権利意識に目隠しをして、その育つことを妨げてきた。

おまけに磯津という町が、この四日市の中でも一種差別されていることを磯津の人で気付いている人はいるが、他地区にいてはそれが見えない。「公害は終わった」コールがどれだけ「第三者」的に多くの「当事者」を傷つけているか分かっているだろうか。それはとりもなおさず自分自身が自分の依って立つ基盤を曖昧にして、同じ四日市市民(三重県民)でありながら加害者として対応していることにはならないだろうか。最近盛んな「夜景ツアー」に四日市が選ばれるのにも大いに違和感を感じている。

 しかし、自然は再生してきている。河口ではシジミ、アサリ、カキも獲れる。この町を後にする若者もいるが、潮騒(しおざい)と朝日が好きで住み続ける人も多い。「自慢できるふるさとにしたい」「磯津に誇りを取り戻したい」その希望の声は嘆きを語る後ろで出番を待っている。それを実現するキーワードが「仕事場」「文化」「若者たち」ではないかと私は思っている。

 

3、       出会いあったればこそ

この1年私は磯津に通うことができた。支えてくれた人たちが山ほどいたからである。

     楠や塩浜の子どもたち、親御さん、そのお友だち、児童全員にチラシ配布を快く了解してくださった現地塩浜小の校長先生方と広がりは大きい。もし仮に「磯津環境学校」なんて開いても子どもたちが来てくれなかったら成立のしようがない。懐かしく来て、私を「月1回の先生」に戻してくれる子どもたちに私は手を合わせるように感謝したい。

子どもを連れて参加してくれるお母さんたちの中には私の小学校教師時代の教え子もいる。30数年を経て、今再び新しい息吹がそこにいる。

     楠・磯津で飛び込みなのに優しくしていただいた方々の恩は大きい。

最初に声を交わした漁協のやっちゃん、私を呼び止めて磯津とナスバナの手ほどきをしてくれた光一(みちかず)さんの娘弘美さんに始まり、聞き取りで出合わさせていただいた皆さん、はまゆうクリニックの磯野先生、原告石田かつさんの息子さん夫妻、楠民俗資料館の杉中先生、いつも優しい笑顔で迎えてくださる石田正之さん夫妻、はっきりものを言うが本質をつく今村徳一しづ子さん夫妻、すべてを許してくれる今村茂久子さん夫妻、心優しい森自治会長、鯨船を愛してきた山源(やまげん)今村隆司氏とこの1年の出会いは豊かだった。

     勇気をくれた人たちの存在も大きい。 

 IJCの宏樹くん、その叔父にあたる三十八(みとや)さん。このお二人には磯津での大事な夢と希望をいただいた。公害で消された「平和町」のことを現地で掘り起こしてくれた栗山さん、石原労働者で適格な分析をしてくれたAさんにも勇気とは何かを教えていただいた。マル伊水産社長の松浦くん、山源の太一くんたちの若さと礼儀正しさも私に未来を感じさせてくれる。お便りをくださる皆さん、詩で励ましてくれる友人とありがたい。

     環境学校と実務・編集を支えてくれる皆さんには本当にお世話になっている。

あまりにも近すぎて忘れそうだが、いつも磯津公会所の鍵を開けてくださる北町自治会長の岩和さん、度々講師をしてくださる画家の伊藤宏さん、ベジフルおばさん中嶋千絵さん、凧と遊びの名人山下潔さん、流木で世話になった大工の須藤さん、野鳥の会の市川さん・安藤さん、植物の専門家桐生さん、地元の滋先生、高校で授業をさせていただいた菅さん、押し花の喜多先生、公害教育の鳥井・加藤みはる大先輩、塩浜駅でギャラリーを開くトップ企画の今村さんと枚挙にいとまがない。いつも言うが袋詰めの若者たち、真里、竜士、一樹、紳平、隼人、あゆみと武藤君。通信が付くと必ず長い励ましの手紙をくれる群馬の大澤さん、環境問題に詳しい教え子で大阪でアセスを仕事にするSくん、「アジアから、世界から」の執筆者を紹介してくださる谷畑さん、樋口事務所に集う皆さん…とたくさんの仲間に支えられている。英訳をしてくれる娘たちにも。

     漁協や行政、全国の皆さんにもお世話になっている。

   磯津漁協の組合長(きよく)さん、楠漁協川村組合長さん、四日市環境保全課、南部浄化センター、三重県環境保全事業団、四日市港管理組合、河川事務所、新聞記者のみなさん、知的刺激をくれる大阪西淀川のお姉さんたち、東京川崎の患者の会の皆さん。いつも気前よくビラを置かせて下さる資料館やセンターのお姉さんたちの笑顔も楽しい。

     スタートの恩人を忘れない。

 磯津・楠でこんなボランティアをしたい、恩送りをしたいという原点は幼くして命を奪われた谷田尚子ちゃん服部吉秀くんへの鎮魂であり、野田さんへの恩返しである。

毎日持ち歩くファイルの中には二人の子の顔写真と記事を入れている。

 

4、シンポを終えた日

 第1回となる「いそかん」シンポジウムは三重県歴史教育者協議会の例会からスタートしたのだった。磯津での1年間の取り組みを見せてほしい、出会った人に会わせてほしいとの要望を受けて。話はその後広がって、歴教協といそかんの合同開催、公害患者友の会(仮)の共催と進んで当日。午前中は、「いそかん」の経過と出会い、もっと「我々自身が磯津に当事者性をもとう」と余裕だったのだが、午後のシンポは多岐に及ぶ中、ぐんぐん刺激的になっていった。

  野田さんに、20年来の付き合いになるが、(きみらは)何をしたいのか未だに分からんと言われ、塚田さんにあるべき方向を示していただき、三十八さんや久子さんに抱え込んでもらって一気に前に進む何かをもらった気がする。「オレは磯津に目が向いとるよと勝手に思い、オマエらも当事者性をもてよと説教をたれてた自分」他でもない私自身が、真に目を磯津に向け、磯津の人の心に目を向けて、臆せず、磯津に入ることだと気付かせられた瞬間だった気がする。

 

5,磯津で今を生きる

 7月末、磯津の連合自治会長の岩和さんを訪ね、8月6日のいそかんの「流木アート」のチラシと今までのいそかんのダイジェスト版を回覧していただくことで話がついた。600軒の磯津の全家庭にいそかんの取り組みと案内が届き、目に触れる。いそかんとしてはひとつの画期なのである。
 商業新聞では書き得ない情報を提供するのもミニコミ紙としては誇りである。磯津・楠での変化をいち早く取り上げ地域の人々に伝える。それが地域世論となって自治会長さんが市や県に出向き要求している。

吉崎の再開発はその例である。また、良く健闘している中日でもなかなか書き得ない真実。判決39周年今だから言えると触れ込んだがやはり限界がある中で、磯津通信は労働者の視点で過去の事実を告発した。小さいながらもメディアとしての役割は果たしている。

 しかし、環境学校は今ひとつの試練の中である。「やさにし」と言う週1の子ども会に学んで、磯津の中に要求を掘り起こそうとしている。

私は三重県歴史教育者協議会委員長の名刺から「磯津環境学校 共同代表」の名刺に変えた。その同じ肩書きの名刺を持った若者が何人もできた。

道のりはジグザグだけれど、決して後戻りはしていない。

 


連絡先 萩森繁樹 (090-4269-0965)
Copyright©2011 磯津環境学校(いそかん) All Rights Reserved.

inserted by FC2 system