磯津の鯨船(映像) 
 


新春・春 


正月の磯津漁港と塩崎神社2012.1.3




アサリのせり  2011.1.27


磯津漁港と冬鳥 2012.2.24


 




2011.9.21~23 塩崎神社(鯨船のでない今も幟だけは揚げてみえる)
 
 



鈴鹿川本川河口の鳥たち
 


磯津の風物詩           Mさんのお話

昔の磯津の風景

磯津の東の海岸線は今はコンクリートの護岸堤防で周回道路になっていますが、昔は砂浜でした。船着き場があって、引き込みのトロッコの線路がありました。漁船が着くと、とった魚は手舟から大たもでとろ箱へ移して運び込まれます。その線路と線路の間で子どもたちは三角ベースをしたり、素潜りで船の何そう目まで潜れるか競ったりしました。腹がへると干してあるじゃこを失敬したりして。

南の方は一面サツマイモ畑が広がっていました。トンボとりに駆けずり回った日々。「ヤマホーイ、ヤマホーイ」とギンヤンマをねらっていました。ある日、友だちが「助けてくれ~~」と呼ぶのです。どこにいるのか見えません。やっと声のありかを見つけると、畑の中にある「肥溜(こえだめ)」(肥料にするためのウンチのため池)に落ちていたのです。引っ張り上げ、服を脱がせて、洗い、干して、自分たちはくささには慣れ、何食わぬ顔で帰ったのですが、すぐにその臭いで家の人にはバレてしまいました。

江川の流れ込む「ごそうどう」(水門)ではウナギやフナ、毛ガニ(やまそ)が獲れました。うなぎは売れました。

塩田もありました。現在のマル伊水産のあたりには、芝居小屋もあって浪曲師南條(ふみ)(わか)(のちの三波春夫)酒井雲坊(くもぼう)(のちの村田英雄)も来たと言います。

西の方(今の塩浜小学校のあたり)の河川敷には桑畑が広がっていました。その実を食べて口の周りを赤くしたり、学校帰りは橋を渡らずに、水の少ない川を横切って帰ったりすることも多くありました。堰があり、上側は深さ50cmぐらいあったと言います。堤防の内側(今タンクヤードがあるあたり)には、松が3本ほどあり、農業用水にはホタルも出たそうです。

 

伊勢湾台風

 Mさんのお話の中でI産業の三田処分場のお話になりました。えらい学者がいくらお墨付きを与えても、災害の不安は消えない。その原点にMさんの伊勢湾台風体験がありました。

 昭和34年9月26日、台風接近にともない港付近でぐんぐん上がる海面を土嚢で必死に止めていました。しかし、これは無理と判断した自治会長は「家に帰り、家を守り、家族を守れ」とみんなを帰します。その判断の的確さを今もよく覚えています。

 水は床上30cmでひたひたと押し寄せてきます。2階に上がり、いざというときは天井を破って屋根に上がるため、のこぎりらバールを用意します。一方で、お父さんたちは冷静な判断もしています。磯津の地形は西と南が比較的低いので水はそちらに行くだろうと。

水は仏壇がつくぐらいですみました。

 台風の後、浜はどうなっているか、お兄さんと2人で見に行きました。夜の10:30ごろでした。月はこうこうと出てキラキラ光るものがありました。よく見ると養鰻場のウナギが固まってとぐろをまいているではありませんか。振り返ると常滑の灯が妙に近くに見えるぞ、と目を凝らすとすぐ近くに大型船が座礁していました。それがイギリスの貨客船チャンシャ号(7411t)だと後で知ります。

 三田の埋め立ての話にもどります。

 再び、伊勢湾台風級の大型が来たら。海面は2.3m持ち上げられます。そこに三田処分場のような突起の埋め立てが存在したら、いったい海流はどんな影響を受けて、さらに水面を押し上げるか未知数なのです。

 

夜は潮騒の、朝は潮の香

 磯津で暮らす人たちにお話を伺うとここで暮らす良さは、潮騒と潮の香りが一番と言います。磯津の町も漁師さんの占める比率は下がり、丘に上がりサラリーマンになる人がほとんどです。いや、何年か後には漁協の存在も危ういのです。

磯津の浜辺は町民みんなのものです。確かに漁師さんはそこで生業の糧を得ます。しかし、磯津の人みんなが、その海で安らぎと憩いを享受してきたのです。生まれてこの方、海辺で砂をつかんで、指の間から砂がこぼれる感覚を味わい、潮風に吹かれながら、対岸の景色を見て育ちました。

  磯津は海を持つ四日市の、訪れる市民みんなの大事な海なのです。


連絡先 萩森繁樹 (090-4269-0965)
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